インドネシアと日常と。

U.Tokyo/UGM(Indonesia)留学  今一番食べたいのはインドネシアの露店ご飯。

アニメを顧みる① <PSYCHO-PASS>

 

 

0. 前置き

 2020年は自分にとってアニメの年だった、といっても過言ではない(それもそれで問題があるが、、)。もともとアニメにネガティブイメージを抱いていたわけではなかったが、大学や留学などの活動で趣味として鑑賞することからはしばらく遠ざかっていた。しかし、1月にインドネシアで友達から鬼滅の刃を勧められ、よくわからないままに視聴を開始すると勢いが止まらず。少なくともこの1年で15作品ほどは視聴したので、久しぶりの再燃と言えるだろう。

 基本的にどれも寝る前の休息としてはとても楽しめたが、個人的尺度で「ストーリーが投げかけるメッセージ性が」傑作だと思える作品が2つほどあった。「PSYCHO-PASS サイコパス」とお馴染みの「進撃の巨人」である。後者はつい先日に最終回を迎え、当然興奮冷めやらぬままである。どちらも原作者の尋常とは思えないストーリーの作り込みによって構成されているだけでなく、現代社会のホットトピックと絡めて読み込むことができる。マルクスの言う「下部構造による上部構造の規定」そのものかもしれない。

 「PSYCHO-PASS」は第1シリーズが約10年前と今更感もいいところだが、この作品について勝手な分析を書いてみたいと思う。なお、本アニメは第3シーズンまで放映されているが基本的に各シリーズで話は完結している。ここでは基本的に、最もメッセージ性を読み取れた第1シーズンのみに照準を当てる。

 

1. 作品概要

 簡単にWikipediaに記載されている要旨を転載する。

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASSサイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。

そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。

本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。

 簡単にまとめると、

  • 個人の内面にまで機械の計測が及ぶ
  • それら膨大のデータを国家権力の元の中央集中型(⇄分散型)のコンピュータで分析する
  • その結果、個人が最良の結果を得られるように生き方(選択)を勝手にデザインしてくれる
  • 一方で、犯罪を犯しそうな奴は”潜在犯”として事前に収監される
  • そんなシステムによって最大多数の最大幸福を実現する

という社会を描いたものだ。数年前にベストセラーとなった「ホモ・デウス」の内容を思い出させる。本当に実現するには技術的のみならず哲学的な障害(功利主義の問題点の議論と重なるだろう)も大きいことは確かだが、そこにはあえて触れられていないのだろう。とにかく、後に詳述するが、権力の元の巨大な「システム」にいわば”支配・統治されている”、という点が重要である。

 内容に入る前に、後々重要になってくるメインキャラクターにも触れる。「各々が互いに対置されるはっきりとした思想的立場をとっている」ことが大きな特徴かつ魅力であり、視聴者がキャラの目線に立って思考することも助けている。

 

常守朱

 本作品の主人公。エリート刑事1年生として着任し、様々な価値観や事件の中で「何が正義か?」などと葛藤を続ける。当初は(大多数の人間と同様に)シビュラシステムの命令に従い刑事の役割を果たすのみだったため、システムに検知されない犯罪者・槙島聖護(③の人)を自らの手で止めることができず、目の前で親友を殺されてしまう。人間として圧倒的成長を遂げてゆく後半に繰り出される数々の名言は必見。

狡噛慎也

 常守と同じ刑事課に所属する。過去に仲間を殺された未解決事件の犯人・槙島聖護(③の人)を追うことを最大の目的とする。元は常守と同じ監視官と言うエリート役職だったが、その事件の影響でシビュラシステムに潜在犯と認定され、犯罪者を直接裁く執行官と言う地位に格下げされた。監視官である常守と一緒に行動することが多い。友人の仇のためにシビュラで裁けない槙島を殺そうとする狡噛は、あくまで法で裁くことを望む常守とは、同じ刑事でありながらも意見を異にする。今回の文章ではあまり掘り下げない予定。

槙島聖護

 本作品のラスボス的な立ち位置である。中盤からはずっとこいつを追う展開が続く。犯罪者なのにシビュラシステムが犯罪者と検知できない特殊体質を持っており、それにより常守は目の前で友人を殺されるのを止められなかった。槙島はそんな常守を含む社会全体に対して「己の意志を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、はたして、価値はあるんだろうか?」と問いかけ、「人間の意志」に基づく行動にのみ価値があると主張する。



 本作品を傑作と思う所以は、上記の社会設定の中で生きる人々の日常や葛藤を、ストーリーの隅々にわたって描き出しているところである。頻出する名言の数々も、少年漫画にありがちな雰囲気に流されたようなものではなく、社会への深い洞察の上で発せられているものばかりだ。それを通して、我々に現在の社会トレンドについて、そして自分自身について一考を促す作用を持つのである。

 抽象的なことばかり書いても仕方がないので、個別具体的なトピックを作品がどう描いているかを、作品や社会学・哲学からの引用(作品の中でも学者の著作がよく紹介されている)・個人的解釈も交えて記述していく。多分に厨二病まがいの文章となる予感がすでに大きい。

 

2.「システム」が支配する社会がもたらすもの

 

 本作品の中ではほとんど全話といってもいいほど、「システム」という言葉に触れたシーンが登場する。ここでいうシステムとは、wikipedia抜き出しで書いたように「シビュラシステム」を指す。日常シーンでは、このシステムに慣れ切った人々の放つ言葉が興味深い。

 「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて、考えもしなかったよ。」(第2話)

 しかし、シビュラシステムでは犯罪者と計測できない特殊体質を持つ槙島聖護(前段の人物紹介参照)が現れて以降、そんなシステムの裏の面、例えば、目の前で人が殺されていても止めようとしない民衆(第14話)・人との繋がりが希薄になった人間の孤独(第21話など)、、、などが頻繁に描かれるようになる。そんな状況を、狡噛や常守はこう述べている。

狡噛「安全完璧な社会なんて、ただの幻想だ。俺たちが暮らしているのは、今でも危険社会なんだ」(第17話)

常守「システムに守られたこの社会に、むき出しの人間性を突きつけて来る」(第19話)

 ちなみに、システムのエラーたる存在・槙島聖護に対してどう対応するかについては、刑事の2人(狡噛慎也常守朱)で意見は異なる。そこが本作品のクライマックスになるにつれて決定的となってゆくのは必見である。

 狡噛「法律(=シビュラシステム)で人を守れないなら、法の外に出るしかない」(第18話)

 常守「法が人を守るんじゃ無い、人が法を守るんです」(第22話)

 何かを賭けたいほどに確信できるが、原作者は間違いなく近代社会学の大家(社会学という言葉が出来る前だが)・マックスウェーバーの議論を物語の核・あるいは随所の土台にしているように思う。実際に、後半では直接にウェーバーの論を引用したセリフが複数存在する(第20話)。ウェーバーは本作品でいう「システム」を「官僚制」(蛇足かもしれないが付け加えると、ここでいう「官僚制」とは霞ヶ関のみを指しているのではなく、会社・学校など社会の合理化への役割を持つ組織全般を指す。)という言葉で表し、その特徴を合理性・代替可能とするとともに、それらが支配する社会を「鉄の檻」と表現した。これはシビュラシステムの内実と極めて類似している。また、(僕の理解が正しければ)このウェーバーの学説を土台にシステムについての思考を深めたのが、フランクフルト学派でお馴染みのユルゲン・ハーバーマスである。彼は、システムが支配する領域(多分ウェーバーでいうところの「鉄の檻」)を「システム世界」・その外側を「生活世界」と呼んだ。ここでいう生活世界とは、顔が見える領域ー例えば地縁的共同体など「絆」で結ばれた領域ーが一例に当たると解釈している。これに沿えば、前者の拡大・後者の縮小が近代以降の特徴であり、その極致が本作品「PSYCHO-PASS」の描く社会であると言えよう。

 描かれているのはシステム化した社会の内実のみではない。それにヒビが入ってしまった時ーー作品では、シビュラシステムに引っかからない体質を持つ犯罪者・槙島の登場と言えるーーの人間の脆さについても触れられている。システムなくしては目の前の犯罪を止められず、誰もが互いに疑心暗鬼になり、「やられる前にやる」で暴力をふるいあってしまう(第14,15話)様子が印象的な演出とともに描かれる。この描写が意味するのは「システムに依存しすぎてしまうことの危険性」だと考えるのが妥当だろう。ネットニュースや論壇で飽きるほど見てきたような内容が、再び質感を持って想起される。「信頼で社会を結ぶ」ことが綺麗事でもなんでもなく、有事にこそ不可欠な要素であることが確認できるだろう。作品に沿うように記述すれば、「システムがなくても健全に生活を営める人間生来の機能を保持する」ことが重要だということだろう。

 あえてまとめてみると、以下のようなメッセージングを読み取れた。書いてしまえば、社会学などからよく提出されていそうな陳腐なものである。

個人の生活デザインにまで踏み込むシステムによる統治は、人々に「安心・安全」という幻想を惹起させる。しかし、それらに依存し顔が見える範囲での関係性(生活世界)を縮小しすぎると、人間本来の絆・信頼といった機能が失われ、システム損壊時のダメージが決定的となってしまう。

 

 ちなみに、本筋からずれるが注目されるべき点がある。本作品ではシビュラシステムを支える「思想」ーー最大多数の最大幸福たるベンサム功利主義を指すだろうーーそのものへの批判は基本的にメインストリームとして触れられていない。あくまで「システム」という概念そのものに着目した描写が多い。これによって「システム」という言葉が少し宙に浮いている感を出してしまう面もあるが、一方で、自分含めた視聴者に現実世界へのインプリケーションを与えることができるように思う。

 ここまではシステムによる社会とその瓦解時のリスクについて触れたが、作品ではまた別の問いが提示されている。むしろ、これまでの部分はこちらの問いを考えるために存在したと考える方が適切かもしれない。「そもそもシステム「だけ」によって回る社会は肯定されるものなのか?」という問いだ。

3. 完全なシステムが支配する社会は「幸せな社会」か? 

 「社会を変える」ということは、手段はどうあれ「制度・システム」を変えることとしばしば同化して語られることが多いように思う。最近の日本のトピックで考えると、入試改革・議会・企業トップの女性比率増加・自助から公助への転換などが挙げられるだろうか。このような場面でしばしば(自分を含めて)前提にされやすいのが、「社会の制度・システムの問題を解決することは、一人一人の問題解決(=幸せな人生を送れること)と等価である。」という図式だろう。社会学者の宮台真司さんという方は、著書で「社会がよくなれば人が幸せになれる」という立場を「主知主義=左」だと解説しており大変勉強になった。

 何はともあれ、この図式に待った、をかけるのが本作品である。作品に沿って問いを再設定すると以下だ。「人の理性・知性で作り上げたシステムによって全てを計算可能化し、最大多数の最大幸福が実現できる」ことそれ自体にどうケチをつけるか?と。面白いのは、メインキャラの3人、常守朱狡噛慎也槙島聖護のいずれもが作品での「完璧に機能する」シビュラシステムを程度の差こそあれ否定している ーそれも皆違った立場からー 点だ。冗長性を避けるため狡噛についてはここでは省略し、残り2人の立場を伺える発言を一部切り取る。

常守

「悩むことが出来るって、本当はとても幸せなことじゃないかって。」(第20話)

「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う。」(第20話)

「社会が必ず正しいわけじゃない。だからこそ私達は、正しく生きなければならない。」(第2シリーズ 第1話)

 

槙島

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ、価値を持つと思っている。」(第11話)

「己の意志を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、はたして、価値はあるんだろうか?」(第11話)

 

 ここから読み取れる意外な事項は、常守と槙島の思想は意外にも似通っている、ということだ。二人とも「自分の意志で物事を引き受け、決断する」ことを重視しており、シビュラシステムに決定権を委ねることをよしとしない。では二人の相違点は何だろうか。それは、「意志による決断」は常守にとっては「自らを含めた人間の、それぞれ形は違う幸せのために必要なもの」だが、槙島にとっては「システムに引っかからない超越者たる自らにとって価値がある鑑賞物」でしかないという点だ。冒頭の問いに関わるという意味で二人の立場をそれぞれもう少し掘り下げたい。

 常守については、別の重要なセリフをここで引用する。槙島に殺された常守の友人の、常守の夢の中での問いかけとその応答である。

「辛いことなんて一つもなかった。全部誰かに任せっぱなしで、、、、(略)それでも私は、幸せだったと思う?」

「幸せになれたよ。それを探すことがいつだってできた。生きてさえいれば、、、。」(第20話)

 常守の立場はここから確定させられる。彼女が考える幸せとは、「その場その場でシステムに与えられる幸福感」ではなく、「自らの意志で決断したという事実・その記憶」という事になる。すでに理論化されていることだとは思うが、この両者を区別することはきっと大切なことなのだろう。

 槙島はどうだろうか。彼が「人間の意志」をただの鑑賞物とみなす、つまり自分を(人間を好きに殺すこともできる)上位の観測者と位置付けていたのはどんな理由があったのだろうか。槙島本人の言葉・狡噛の分析がその答えを与えてくれるように思う。

槙島「誰だって孤独だ、誰だって虚ろだ。もう誰も他人を必要としない。どんな才能もスペアが見つかる。どんな関係でも取り替えが効く。そんな世界に、飽きていた。」(第22話)

狡噛「自分のサイコパスを自在にコントロール出来る体質、それを特権だと思う人間もいるでしょう。でも、槙島は違った。奴が覚えたのは、おそらく疎外感です。」(第19話)

 槙島に生来的に欠けていたのは、モラルでも常識でもなく、「人との繋がり」であったという指摘である。取り替えが効かない関係性、友情や愛情・仲間意識といった感覚を槙島は生まれの体質によって持つことができず、それが彼の歪んだ視点をもたらした、という解釈だ。そして上の発言にもある通り、この社会で生きる人間誰もがそんな孤独感・虚無感を持ちうるのである。これは前項で触れたウェーバーの「代替可能化する近代社会」という論と無関係ではないだろう。いささか無理のある解釈かもしれないという自覚はあるが、この解釈によって、常守の立場と並んで「システムのみによる統治」にケチをつけることが可能となる。 

 ここでも、メッセージングとして読み取れたものを半ば強引にまとめる。前項よりも、こちらの方が実生活に即した形で納得しやすい印象を受けた。あくまで個人的にだが。

 膨大なデータ・処理能力を併せ持つシステムは、安全性・利便性という方向で合理的に人々の幸福を実現させることはできる。しかし、自らが責任を持って引き受けて決断する意志は物質論的な幸福を凌駕する作用を持ちうる。また、上記システムは人々に自らが代替可能という感覚を与え、合理性を超越した連帯感・絆が失われてしまう傾向にある。良いシステムを作るだけで、幸せに生きられるわけではない。

4. 現実社会への含意

 ここまでは作品が投げかけているものという方向性で、多分な主観が入りながらも解釈を中心に考えてみた。最後に烏滸がましい感がすごいが、作品が現実の社会に何を問いかけうるか、少し考えてみたい。

 まずあらかじめ頭に入れておかなければならないのは、ここまで扱ってきた作品の設定・主張が、現実の社会・あるいは社会理論とマッチするものばかりではないという点である。例えば、「システムだけではなく意志が大事」というテーマがあったが、これは再帰性(reflexibility)の近代/ポストモダンではそう単純に作用しない。人間の意志すらもシステムによって作られる、という感覚が広がりつつあるからである。したがって、自分の勉強不足も多分にあるのだが、個人的には広い意味での「意志」という価値に重きを置くことは避けたい(その対象によっては意味は変わりうるとは思うが)。さらに、本作品では「システムへの追従」か「システムへの反抗」がスタンスとして描かれていた。しかし、「システム(社会)を変えるために動く」ことの内実も注目される/検討されるべきである。この論点については派生的に考察することは可能なので、別にまとめたい。

 それでも、現代が「システム」が扱う領域拡大のポテンシャルを多分に秘めているという点で、本作品は自分にとっては十分に示唆を与えてくれる。直接みたこともないのだが、中国の一部で「信用スコア」なるものが導入されているのはよく話題に上がる。アニメでも「監視社会」という言葉が使われているが、中央権力の権限が大きいほどシステム化の実現は容易になるのかもしれない(デジタル技術によって旧ソ連より劇的に監視コストが下がったという事実もあるようだ)。数年前まではそんな監視国家を批判・嫌悪する声の方が、少なくとも自分属する一般人の間では、圧倒的だったと思うが、コロナ対策や経済状況によって少し風向きが変わってきた/くる可能性はありうる。そうでなくても、データ社会と言われる今、権力がそれらをどう統治に組み込むかは重要課題となっているのは間違いない。

 前置きが長くなりすぎたが、自分は現実を捉える物差しとして、本作品から2つの観点を得られたように思う。

 一つ目は、「代替可能性・合理性を志向するシステム」と「取り替えが効かない人との関係性」をうまく両立していく、という視点である。再びハーバーマスから引けば、「システム世界と生活世界の棲み分け」とも言えるかもしれない。作品では巨大なシステムに対する疑念が中心に寄せられたが、終盤で常守が触れるように、「システムなしに社会が運営されることは不可能である」というのは忘れてはいけない。現実を見ても、優れた統治システム(少なくとも日本よりは)によってうまく機能している国家は数多く存在しているように思える。それらシステムの便益を認めつつ(というか無意識に享受しまくっているので偉そうに「認める」なんて言えるはずもない)、代替不可能な領域を無自覚に手放さないこと。合理性・効率性の基づく計算によってのみ動くのではなく、自らの内発的な意志・感情を後手に回さないこと。コロナで人との関わりが減りがちな今だからこその教訓だと思う。PSYCHO-PASSを同様にみたインドネシアの友人の言葉を借りれば、「仲間を大事にしよう!」と集約される。聞き飽きたのもいいところのような言葉だが、作品視聴後には一際重みを持って感じられる。

 二つ目は、少しメタな視点だが、「システム(社会)と人の良し悪しは必ずしも一致しない」というものである。「社会は人の集まり」とはよく言われる言葉だが、それを厳密な意味で否定した言葉とも言えるだろう。時折、社会(ここでは国を指すが、地球でも村でもいい)への評価が自意識と重なることにより、不必要にネガティブな感覚を覚えることが個人的にあった。官僚を進路として考えたことがある人にはなんとなく伝わるかもしれない。しかし、「社会がうまく機能する事」≠「その構成員もみんなハッピーであること」という図式を片隅に持つことで、社会と自己とを一部で切り離して捉える習慣ができてきたと思う。また逆説的だが、自己と社会の関わりを考える上でも大切にしたい。「社会に貢献したい」を「社会に貢献する自己を実現したい」と無自覚に同一化しないためだ。

 

 大学では量的分析の方が好きとは思えない、抽象的な文章となってしまった。しかし、書くという作業を通して、アニメを見ながら降り積もっていたアイデアの断片がなんとかつなぎ合わさっていったように思う。書き終わってひたすら脳内に反芻するのは、「やっぱ面白い」の1フレーズである。うん、もう1回視聴しよう。

 

参考:

ケン・ブラマー(2021).「21世紀を生きるための社会学の教科書」.ちくま学芸文庫

ジグムント・バウマン(2016). 「社会学の考え方」. ちくま学芸文庫

大澤真幸(2019).「社会学史」. 講談社

宮台真司(2017).「私たちはどこから来て、どこに行くのか」. 幻冬舎