インドネシアと日常と。

U.Tokyo/UGM(Indonesia)留学  今一番食べたいのはインドネシアの露店ご飯。

アニメを顧みる① <PSYCHO-PASS>

 

 

0. 前置き

 2020年は自分にとってアニメの年だった、といっても過言ではない(それもそれで問題があるが、、)。もともとアニメにネガティブイメージを抱いていたわけではなかったが、大学や留学などの活動で趣味として鑑賞することからはしばらく遠ざかっていた。しかし、1月にインドネシアで友達から鬼滅の刃を勧められ、よくわからないままに視聴を開始すると勢いが止まらず。少なくともこの1年で15作品ほどは視聴したので、久しぶりの再燃と言えるだろう。

 基本的にどれも寝る前の休息としてはとても楽しめたが、個人的尺度で「ストーリーが投げかけるメッセージ性が」傑作だと思える作品が2つほどあった。「PSYCHO-PASS サイコパス」とお馴染みの「進撃の巨人」である。後者はつい先日に最終回を迎え、当然興奮冷めやらぬままである。どちらも原作者の尋常とは思えないストーリーの作り込みによって構成されているだけでなく、現代社会のホットトピックと絡めて読み込むことができる。マルクスの言う「下部構造による上部構造の規定」そのものかもしれない。

 「PSYCHO-PASS」は第1シリーズが約10年前と今更感もいいところだが、この作品について勝手な分析を書いてみたいと思う。なお、本アニメは第3シーズンまで放映されているが基本的に各シリーズで話は完結している。ここでは基本的に、最もメッセージ性を読み取れた第1シーズンのみに照準を当てる。

 

1. 作品概要

 簡単にWikipediaに記載されている要旨を転載する。

舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASSサイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。

その中でも、犯罪に関しての数値は「犯罪係数」として計測され、たとえ罪を犯していない者でも、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていた。

そのような監視社会においても発生する犯罪を抑圧するため、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事は、シビュラシステムと有機的に接続されている特殊拳銃「ドミネーター」を用いて、治安維持活動を行っていた 。

本作品は、このような時代背景の中で働く公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。

 簡単にまとめると、

  • 個人の内面にまで機械の計測が及ぶ
  • それら膨大のデータを国家権力の元の中央集中型(⇄分散型)のコンピュータで分析する
  • その結果、個人が最良の結果を得られるように生き方(選択)を勝手にデザインしてくれる
  • 一方で、犯罪を犯しそうな奴は”潜在犯”として事前に収監される
  • そんなシステムによって最大多数の最大幸福を実現する

という社会を描いたものだ。数年前にベストセラーとなった「ホモ・デウス」の内容を思い出させる。本当に実現するには技術的のみならず哲学的な障害(功利主義の問題点の議論と重なるだろう)も大きいことは確かだが、そこにはあえて触れられていないのだろう。とにかく、後に詳述するが、権力の元の巨大な「システム」にいわば”支配・統治されている”、という点が重要である。

 内容に入る前に、後々重要になってくるメインキャラクターにも触れる。「各々が互いに対置されるはっきりとした思想的立場をとっている」ことが大きな特徴かつ魅力であり、視聴者がキャラの目線に立って思考することも助けている。

 

常守朱

 本作品の主人公。エリート刑事1年生として着任し、様々な価値観や事件の中で「何が正義か?」などと葛藤を続ける。当初は(大多数の人間と同様に)シビュラシステムの命令に従い刑事の役割を果たすのみだったため、システムに検知されない犯罪者・槙島聖護(③の人)を自らの手で止めることができず、目の前で親友を殺されてしまう。人間として圧倒的成長を遂げてゆく後半に繰り出される数々の名言は必見。

狡噛慎也

 常守と同じ刑事課に所属する。過去に仲間を殺された未解決事件の犯人・槙島聖護(③の人)を追うことを最大の目的とする。元は常守と同じ監視官と言うエリート役職だったが、その事件の影響でシビュラシステムに潜在犯と認定され、犯罪者を直接裁く執行官と言う地位に格下げされた。監視官である常守と一緒に行動することが多い。友人の仇のためにシビュラで裁けない槙島を殺そうとする狡噛は、あくまで法で裁くことを望む常守とは、同じ刑事でありながらも意見を異にする。今回の文章ではあまり掘り下げない予定。

槙島聖護

 本作品のラスボス的な立ち位置である。中盤からはずっとこいつを追う展開が続く。犯罪者なのにシビュラシステムが犯罪者と検知できない特殊体質を持っており、それにより常守は目の前で友人を殺されるのを止められなかった。槙島はそんな常守を含む社会全体に対して「己の意志を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、はたして、価値はあるんだろうか?」と問いかけ、「人間の意志」に基づく行動にのみ価値があると主張する。



 本作品を傑作と思う所以は、上記の社会設定の中で生きる人々の日常や葛藤を、ストーリーの隅々にわたって描き出しているところである。頻出する名言の数々も、少年漫画にありがちな雰囲気に流されたようなものではなく、社会への深い洞察の上で発せられているものばかりだ。それを通して、我々に現在の社会トレンドについて、そして自分自身について一考を促す作用を持つのである。

 抽象的なことばかり書いても仕方がないので、個別具体的なトピックを作品がどう描いているかを、作品や社会学・哲学からの引用(作品の中でも学者の著作がよく紹介されている)・個人的解釈も交えて記述していく。多分に厨二病まがいの文章となる予感がすでに大きい。

 

2.「システム」が支配する社会がもたらすもの

 

 本作品の中ではほとんど全話といってもいいほど、「システム」という言葉に触れたシーンが登場する。ここでいうシステムとは、wikipedia抜き出しで書いたように「シビュラシステム」を指す。日常シーンでは、このシステムに慣れ切った人々の放つ言葉が興味深い。

 「今じゃシビュラシステムがそいつの才能を読み取って、一番幸せになれる生き方を教えてくれるってのに。本当の人生?生まれてきた意味?そんなもんで悩む奴がいるなんて、考えもしなかったよ。」(第2話)

 しかし、シビュラシステムでは犯罪者と計測できない特殊体質を持つ槙島聖護(前段の人物紹介参照)が現れて以降、そんなシステムの裏の面、例えば、目の前で人が殺されていても止めようとしない民衆(第14話)・人との繋がりが希薄になった人間の孤独(第21話など)、、、などが頻繁に描かれるようになる。そんな状況を、狡噛や常守はこう述べている。

狡噛「安全完璧な社会なんて、ただの幻想だ。俺たちが暮らしているのは、今でも危険社会なんだ」(第17話)

常守「システムに守られたこの社会に、むき出しの人間性を突きつけて来る」(第19話)

 ちなみに、システムのエラーたる存在・槙島聖護に対してどう対応するかについては、刑事の2人(狡噛慎也常守朱)で意見は異なる。そこが本作品のクライマックスになるにつれて決定的となってゆくのは必見である。

 狡噛「法律(=シビュラシステム)で人を守れないなら、法の外に出るしかない」(第18話)

 常守「法が人を守るんじゃ無い、人が法を守るんです」(第22話)

 何かを賭けたいほどに確信できるが、原作者は間違いなく近代社会学の大家(社会学という言葉が出来る前だが)・マックスウェーバーの議論を物語の核・あるいは随所の土台にしているように思う。実際に、後半では直接にウェーバーの論を引用したセリフが複数存在する(第20話)。ウェーバーは本作品でいう「システム」を「官僚制」(蛇足かもしれないが付け加えると、ここでいう「官僚制」とは霞ヶ関のみを指しているのではなく、会社・学校など社会の合理化への役割を持つ組織全般を指す。)という言葉で表し、その特徴を合理性・代替可能とするとともに、それらが支配する社会を「鉄の檻」と表現した。これはシビュラシステムの内実と極めて類似している。また、(僕の理解が正しければ)このウェーバーの学説を土台にシステムについての思考を深めたのが、フランクフルト学派でお馴染みのユルゲン・ハーバーマスである。彼は、システムが支配する領域(多分ウェーバーでいうところの「鉄の檻」)を「システム世界」・その外側を「生活世界」と呼んだ。ここでいう生活世界とは、顔が見える領域ー例えば地縁的共同体など「絆」で結ばれた領域ーが一例に当たると解釈している。これに沿えば、前者の拡大・後者の縮小が近代以降の特徴であり、その極致が本作品「PSYCHO-PASS」の描く社会であると言えよう。

 描かれているのはシステム化した社会の内実のみではない。それにヒビが入ってしまった時ーー作品では、シビュラシステムに引っかからない体質を持つ犯罪者・槙島の登場と言えるーーの人間の脆さについても触れられている。システムなくしては目の前の犯罪を止められず、誰もが互いに疑心暗鬼になり、「やられる前にやる」で暴力をふるいあってしまう(第14,15話)様子が印象的な演出とともに描かれる。この描写が意味するのは「システムに依存しすぎてしまうことの危険性」だと考えるのが妥当だろう。ネットニュースや論壇で飽きるほど見てきたような内容が、再び質感を持って想起される。「信頼で社会を結ぶ」ことが綺麗事でもなんでもなく、有事にこそ不可欠な要素であることが確認できるだろう。作品に沿うように記述すれば、「システムがなくても健全に生活を営める人間生来の機能を保持する」ことが重要だということだろう。

 あえてまとめてみると、以下のようなメッセージングを読み取れた。書いてしまえば、社会学などからよく提出されていそうな陳腐なものである。

個人の生活デザインにまで踏み込むシステムによる統治は、人々に「安心・安全」という幻想を惹起させる。しかし、それらに依存し顔が見える範囲での関係性(生活世界)を縮小しすぎると、人間本来の絆・信頼といった機能が失われ、システム損壊時のダメージが決定的となってしまう。

 

 ちなみに、本筋からずれるが注目されるべき点がある。本作品ではシビュラシステムを支える「思想」ーー最大多数の最大幸福たるベンサム功利主義を指すだろうーーそのものへの批判は基本的にメインストリームとして触れられていない。あくまで「システム」という概念そのものに着目した描写が多い。これによって「システム」という言葉が少し宙に浮いている感を出してしまう面もあるが、一方で、自分含めた視聴者に現実世界へのインプリケーションを与えることができるように思う。

 ここまではシステムによる社会とその瓦解時のリスクについて触れたが、作品ではまた別の問いが提示されている。むしろ、これまでの部分はこちらの問いを考えるために存在したと考える方が適切かもしれない。「そもそもシステム「だけ」によって回る社会は肯定されるものなのか?」という問いだ。

3. 完全なシステムが支配する社会は「幸せな社会」か? 

 「社会を変える」ということは、手段はどうあれ「制度・システム」を変えることとしばしば同化して語られることが多いように思う。最近の日本のトピックで考えると、入試改革・議会・企業トップの女性比率増加・自助から公助への転換などが挙げられるだろうか。このような場面でしばしば(自分を含めて)前提にされやすいのが、「社会の制度・システムの問題を解決することは、一人一人の問題解決(=幸せな人生を送れること)と等価である。」という図式だろう。社会学者の宮台真司さんという方は、著書で「社会がよくなれば人が幸せになれる」という立場を「主知主義=左」だと解説しており大変勉強になった。

 何はともあれ、この図式に待った、をかけるのが本作品である。作品に沿って問いを再設定すると以下だ。「人の理性・知性で作り上げたシステムによって全てを計算可能化し、最大多数の最大幸福が実現できる」ことそれ自体にどうケチをつけるか?と。面白いのは、メインキャラの3人、常守朱狡噛慎也槙島聖護のいずれもが作品での「完璧に機能する」シビュラシステムを程度の差こそあれ否定している ーそれも皆違った立場からー 点だ。冗長性を避けるため狡噛についてはここでは省略し、残り2人の立場を伺える発言を一部切り取る。

常守

「悩むことが出来るって、本当はとても幸せなことじゃないかって。」(第20話)

「きっと大切だったのは、善か悪かの結論じゃない。それを自分で抱えて、悩んで、引き受けることだったんだと思う。」(第20話)

「社会が必ず正しいわけじゃない。だからこそ私達は、正しく生きなければならない。」(第2シリーズ 第1話)

 

槙島

「僕はね、人は自らの意思に基づいて行動した時のみ、価値を持つと思っている。」(第11話)

「己の意志を問うこともせず、ただシビュラの神託のままに生きる人間たちに、はたして、価値はあるんだろうか?」(第11話)

 

 ここから読み取れる意外な事項は、常守と槙島の思想は意外にも似通っている、ということだ。二人とも「自分の意志で物事を引き受け、決断する」ことを重視しており、シビュラシステムに決定権を委ねることをよしとしない。では二人の相違点は何だろうか。それは、「意志による決断」は常守にとっては「自らを含めた人間の、それぞれ形は違う幸せのために必要なもの」だが、槙島にとっては「システムに引っかからない超越者たる自らにとって価値がある鑑賞物」でしかないという点だ。冒頭の問いに関わるという意味で二人の立場をそれぞれもう少し掘り下げたい。

 常守については、別の重要なセリフをここで引用する。槙島に殺された常守の友人の、常守の夢の中での問いかけとその応答である。

「辛いことなんて一つもなかった。全部誰かに任せっぱなしで、、、、(略)それでも私は、幸せだったと思う?」

「幸せになれたよ。それを探すことがいつだってできた。生きてさえいれば、、、。」(第20話)

 常守の立場はここから確定させられる。彼女が考える幸せとは、「その場その場でシステムに与えられる幸福感」ではなく、「自らの意志で決断したという事実・その記憶」という事になる。すでに理論化されていることだとは思うが、この両者を区別することはきっと大切なことなのだろう。

 槙島はどうだろうか。彼が「人間の意志」をただの鑑賞物とみなす、つまり自分を(人間を好きに殺すこともできる)上位の観測者と位置付けていたのはどんな理由があったのだろうか。槙島本人の言葉・狡噛の分析がその答えを与えてくれるように思う。

槙島「誰だって孤独だ、誰だって虚ろだ。もう誰も他人を必要としない。どんな才能もスペアが見つかる。どんな関係でも取り替えが効く。そんな世界に、飽きていた。」(第22話)

狡噛「自分のサイコパスを自在にコントロール出来る体質、それを特権だと思う人間もいるでしょう。でも、槙島は違った。奴が覚えたのは、おそらく疎外感です。」(第19話)

 槙島に生来的に欠けていたのは、モラルでも常識でもなく、「人との繋がり」であったという指摘である。取り替えが効かない関係性、友情や愛情・仲間意識といった感覚を槙島は生まれの体質によって持つことができず、それが彼の歪んだ視点をもたらした、という解釈だ。そして上の発言にもある通り、この社会で生きる人間誰もがそんな孤独感・虚無感を持ちうるのである。これは前項で触れたウェーバーの「代替可能化する近代社会」という論と無関係ではないだろう。いささか無理のある解釈かもしれないという自覚はあるが、この解釈によって、常守の立場と並んで「システムのみによる統治」にケチをつけることが可能となる。 

 ここでも、メッセージングとして読み取れたものを半ば強引にまとめる。前項よりも、こちらの方が実生活に即した形で納得しやすい印象を受けた。あくまで個人的にだが。

 膨大なデータ・処理能力を併せ持つシステムは、安全性・利便性という方向で合理的に人々の幸福を実現させることはできる。しかし、自らが責任を持って引き受けて決断する意志は物質論的な幸福を凌駕する作用を持ちうる。また、上記システムは人々に自らが代替可能という感覚を与え、合理性を超越した連帯感・絆が失われてしまう傾向にある。良いシステムを作るだけで、幸せに生きられるわけではない。

4. 現実社会への含意

 ここまでは作品が投げかけているものという方向性で、多分な主観が入りながらも解釈を中心に考えてみた。最後に烏滸がましい感がすごいが、作品が現実の社会に何を問いかけうるか、少し考えてみたい。

 まずあらかじめ頭に入れておかなければならないのは、ここまで扱ってきた作品の設定・主張が、現実の社会・あるいは社会理論とマッチするものばかりではないという点である。例えば、「システムだけではなく意志が大事」というテーマがあったが、これは再帰性(reflexibility)の近代/ポストモダンではそう単純に作用しない。人間の意志すらもシステムによって作られる、という感覚が広がりつつあるからである。したがって、自分の勉強不足も多分にあるのだが、個人的には広い意味での「意志」という価値に重きを置くことは避けたい(その対象によっては意味は変わりうるとは思うが)。さらに、本作品では「システムへの追従」か「システムへの反抗」がスタンスとして描かれていた。しかし、「システム(社会)を変えるために動く」ことの内実も注目される/検討されるべきである。この論点については派生的に考察することは可能なので、別にまとめたい。

 それでも、現代が「システム」が扱う領域拡大のポテンシャルを多分に秘めているという点で、本作品は自分にとっては十分に示唆を与えてくれる。直接みたこともないのだが、中国の一部で「信用スコア」なるものが導入されているのはよく話題に上がる。アニメでも「監視社会」という言葉が使われているが、中央権力の権限が大きいほどシステム化の実現は容易になるのかもしれない(デジタル技術によって旧ソ連より劇的に監視コストが下がったという事実もあるようだ)。数年前まではそんな監視国家を批判・嫌悪する声の方が、少なくとも自分属する一般人の間では、圧倒的だったと思うが、コロナ対策や経済状況によって少し風向きが変わってきた/くる可能性はありうる。そうでなくても、データ社会と言われる今、権力がそれらをどう統治に組み込むかは重要課題となっているのは間違いない。

 前置きが長くなりすぎたが、自分は現実を捉える物差しとして、本作品から2つの観点を得られたように思う。

 一つ目は、「代替可能性・合理性を志向するシステム」と「取り替えが効かない人との関係性」をうまく両立していく、という視点である。再びハーバーマスから引けば、「システム世界と生活世界の棲み分け」とも言えるかもしれない。作品では巨大なシステムに対する疑念が中心に寄せられたが、終盤で常守が触れるように、「システムなしに社会が運営されることは不可能である」というのは忘れてはいけない。現実を見ても、優れた統治システム(少なくとも日本よりは)によってうまく機能している国家は数多く存在しているように思える。それらシステムの便益を認めつつ(というか無意識に享受しまくっているので偉そうに「認める」なんて言えるはずもない)、代替不可能な領域を無自覚に手放さないこと。合理性・効率性の基づく計算によってのみ動くのではなく、自らの内発的な意志・感情を後手に回さないこと。コロナで人との関わりが減りがちな今だからこその教訓だと思う。PSYCHO-PASSを同様にみたインドネシアの友人の言葉を借りれば、「仲間を大事にしよう!」と集約される。聞き飽きたのもいいところのような言葉だが、作品視聴後には一際重みを持って感じられる。

 二つ目は、少しメタな視点だが、「システム(社会)と人の良し悪しは必ずしも一致しない」というものである。「社会は人の集まり」とはよく言われる言葉だが、それを厳密な意味で否定した言葉とも言えるだろう。時折、社会(ここでは国を指すが、地球でも村でもいい)への評価が自意識と重なることにより、不必要にネガティブな感覚を覚えることが個人的にあった。官僚を進路として考えたことがある人にはなんとなく伝わるかもしれない。しかし、「社会がうまく機能する事」≠「その構成員もみんなハッピーであること」という図式を片隅に持つことで、社会と自己とを一部で切り離して捉える習慣ができてきたと思う。また逆説的だが、自己と社会の関わりを考える上でも大切にしたい。「社会に貢献したい」を「社会に貢献する自己を実現したい」と無自覚に同一化しないためだ。

 

 大学では量的分析の方が好きとは思えない、抽象的な文章となってしまった。しかし、書くという作業を通して、アニメを見ながら降り積もっていたアイデアの断片がなんとかつなぎ合わさっていったように思う。書き終わってひたすら脳内に反芻するのは、「やっぱ面白い」の1フレーズである。うん、もう1回視聴しよう。

 

参考:

ケン・ブラマー(2021).「21世紀を生きるための社会学の教科書」.ちくま学芸文庫

ジグムント・バウマン(2016). 「社会学の考え方」. ちくま学芸文庫

大澤真幸(2019).「社会学史」. 講談社

宮台真司(2017).「私たちはどこから来て、どこに行くのか」. 幻冬舎

 

 

 

備忘録:国家総合職 教養区分の所感 2/2

 前回から時間が空いてしまったが、教養区分の所感について引き続き書いて見ようと思う。肝心の2次試験についてである。

 また、前回でも書いたがこれはあくまで2020年度試験終了時点でのものである。

 

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備忘録:国家総合職試験 教養区分の所感  1/2

 去年の10-11月にて、国家総合職、いわゆるキャリア官僚のための選考に臨んで通過した。現在は6月の官庁訪問に向けて、どの省庁を志望するか悩んでいる最中である。言うほど思考の時間を取れているわけではないが。

 後輩などから選考について聞かれることも何回かあり、少しでも受験の情報についてオンライン上に記録しておきたいとの考えを持ち書き始めることにした。国家公務員試験受験の情報、中でもこれから述べる「教養区分」についての情報は、まだまだ充実には程遠い。去年から✖️KASUMI というWebサイトでまとまった情報が発信されているが、やはり現段階では多くの視点からの情報があっても悪いことはないだろう。自分自身も、教養区分受験の際には検索上位に出てきたブログなどを確認して対策を考えたりしていた。大学受験のように、情報がこれでもかと氾濫している状況とは全く異なるのである。

 

 そんなこんなで、以下の枠組みで「国家公務員試験・教養区分」のいろはを解説していきたい。「国家総合職 事務職の話であること」「2021年1月時点での情報であること」「細かい話は年度によって変化の可能性があること」ははじめに断っておきたい。

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2020→2021 <2>2020総括と2021へ

改めて、2020年とはどのような年だったか。ここでは社会で起こったことと前項で記述した自らの行動、双方を踏まえながら文をしたためていく。

 コロナウイルスとの年になった2020年、既に多くの専門家の方達ー政治学・哲学・医学・社会学など多岐に渡ってー、が綺麗な言葉でまとめてくださっている。それらにケチを付けようなどというつもりは毛頭ないというか、こんな表現を使えるようになりたいものだといつも思っているのだが、あえて自らの主観と引き出しから言葉を掘り当てるならば「社会の”矛盾”がこれでもかとばかりに可視化された」とでも形容したい。この緊急事態(あえてそう表現する)にて困窮者は増加する一方、なぜかアメリカでは富裕層の資産が増加している。自由と民主主義を誇り高きレジームとして持っているはずの国々にはコロナ禍が深刻な傷を与え、非民主主義レジームを持つ中国は既に”日常”へと回復している。カリフォルニアやオーストラリアでの森林火災は、これまで環境破壊を精一杯周縁化してきたバックラッシュなのかもしれない。もちろん自分も同等に罪を背負っている。国内では統治の機能不全が象徴的だが、まあこれは今年限りの特徴ではない。

 おそらく後世の歴史入試必出問題となるであろうこれらの状況を、自分は基本的にインターネットを通じて観測するにすぎなかった。なまじネガティブイベントへの共感性だけは高いためにしんどく感じることも多かったわけだが、特に当事者に寄り添うことはせず自らにとって”重要性の高い”活動にただ勤しんでいた。朝井リョウ「何者」のラストシーンで詰められる主人公のようである。もっとも、何も法を侵しているわけではなく遊び呆けているわけでもないので他人に怒られる筋合いがあるわけではない。これはきっと、社会のみならず自らにも存在する”矛盾”との葛藤なのだと思う。目の前の困窮者を前に何も行動せず、公のことを考える立場につく資格が自らにあるのか。無能な善意が地獄への道を用意するとはいえ、考え(力をつけ)ながら行動するという選択肢もあって良いのではないか、など。自らをメタ認知しすぎているのかもしれない。

 じゃあそんなお前はどんな方向性で2020年を過ごしたんだよ、という話に行き着くわけだが、基本的に自分は「何者でもない大学生という期間に大きな価値がある活動をする」というスタンスを大切にしている。入学後2年半ではできるだけ多様な経験を取り、そのあとの留学で異国の土地に住む経験をした。双方とも貴重なものだったのには今さら疑いの余地はないが、そんな中でずっと欠けていたものは「経験の相対化」だったと捉えている。自らの言葉でとった経験を言語化し「体験」と言えるものに変換するところまでは良いのだが、それらを社会の文脈で捉え直した時、どう定義できるのか表現できる言葉・概念を持ち合わせていない。母国語の言語能力の貧弱さに気づいたのは良いことだと思う。さらに述べると、また新しい経験を取ろうと思うにつき、だんだんとただ経験をとることに億劫になる自分がいたことも事実である。何もわからないままに行動だけをすることへの言いようのない気持ち悪さ、とも書けるかもしれない(もちろん、単純な自らの怠惰やプライドが邪魔をしていた面も少なくはない)。少し逸れるが、こうした社会と自己のあり方の関係についてもフーコーの言葉などを用いて綺麗に表現したいものだ。残念ながら、そんなストックはまだ持ち合わせていない。

 とにかく、帰国後はできるだけ多くのインプットを摂取するよう務めてきた。特定の学問分野で学ぶというよりは、自らの疑問に近づけるようにという目的の下、多様な本や講義などに取り組んだ。今になって思えば、多様な経験を(そこでのアウトカムに拘らず)とるということは、社会・ないし世界に対する問いを再構築するという意味合いも含みうるかもしれない。言葉にして見れば当たり前の話である。結局、本の冊数だけでみると135冊ほどの読書量(小説は含まず)となった。重めの本も多かったので、個人的にはがんばったのではないかと自己満足に浸っている。そうこうする中でだんだんと自らと社会、この2者を有機的繋がりとして言語化することが可能になってきた。ブログを書いていこうと思えたのもこれが原因である。また、これからの世界のトレンドをただ受け入れるのも嫌悪感を感じ、情報や統計に関する学習も始めている。こう書くとネガティブすぎる動機だが、非常にやって楽しいことも強調しておきたい。高校時代は理系科目の方が数段得意だったことを思い出す。間違ってもきらびやかのものだとはいえないが、とにかく2020年の注力領域をあげよと求められたら上記に尽きる。

 

 最後に2021年の目指すところを記録しておこうと思う。今まではどこかに書き留めて置くだけで、1年の中で何らかの大きなイベント前なんかにはっと思い出す程度だったのだが、ネット上に書き込むことでもう少しの(内心での)存在感を期待したいな。

(1)こんな風でありたい、いわゆるTo be視点

・自発性を超えて内発性へ

感情を鍛える、取り戻す

 

あまりに抽象的な自覚はあるが、詳細は別の場にでも記載したい。あえてここで一言でまとめるならば、「できるだけ多くの物事に対して、打算性を超えた内なる衝動として取り組めるようになる」と言ったところだろうか。

 

(2)こんなことをしたい、いわゆるTo do視点

・就職先を納得感持って確定させる。

・統計・情報技術の資格を取得する。

・英語インドネシア語の実用面でのレベルアップ

・自らの意見のブラッシュアップと発信

 

個人的には、目標にはこれらに加えて「to achieve」があって良いと思っているのだが、この点ははっきりと定められていない。情けないことだが、どれだけ文章で着飾ってもまだ自分はしょうもない人間らしい。

 

 気が向くように、しかし構造的に記述することを心がけたが、エッセイにしては堅苦しく何かの意見文にしては体裁をなしていないように思える。友達に何人か素晴らしい文章を書く才能を有している者がいるので、近いうちに教えの一つでも請いたいところだ。謙虚なスタンスを守りながらも、もっと自らの意見や考え方を、経験や事象と結び付ける形で文章化していきたいなと思っている。本文でも触れたが、2020年がそのための準備期間だったと言いたいものだ。

2020→2021 <1>2020の振り返り

 

 新しい年がやってきた。昨年4月からずっと実家に巣篭もりしているため、冬らしさを感じられる石川県でのお正月となった。、と新鮮さを感じるのも束の間、よく考えるとこれまで年越しはいつも帰省していたことに気づいた(留学中を除く)。こんなご時世に言うことではないが、そろそろ東京での年越しも体験してみたい。

 お正月と言っても集中して休むことが苦手なため、普段通りに作業とNetflixを3:1で行き来する三ヶ日となった。年明けすぐに課題締め切りが集中しているのは、悪意しか感じられない。

 そして1月4日。活動はとっくに開始しているためサア今日から頑張るぞ、とかいう気構えは全くないのだが、これを機に簡単な目標や昨年の振り返りでも記録しておこうと思う。

 

 とはいえ、振り返りのような広大なテーマを書くのは非常に不得手だという自覚はある。どうしても”うっすい”文章に見えてしまう。この場では自分が納得できるような言語化に止め、個別具体的な話は別の場で深めたいと思う。

 では、まずは昨年の振り返りからだ。

 普段の振り返りは、大晦日SNSにて掲載している(数日後にアーカイブ入りではある)。しかし、2020年12月31日にはどうもそんな気分にはなれなかった。実りがあったと言える楽しい1年になったのは間違いないのだが、それらを「充実した素晴らしい1年でした」と発信することに言いようのない後ろめたさがあったのかもしれない。その後ろめたさとはきっと、近所だけでも生活に苦しむようになった家がいくつかあったり、ニュースで日々ネガティブなニュースが流れているのに(ちょっとした寄付以外)何もしていない無力さだったのだろう。言うまでもないが、誰かが困っているから自分が楽しんではいけない、なんていうのはなんの正統性もないロジックであり、勝手な個人的な感情である。

 前置きが長くなってしまった。こんなことを書きたかったわけではない。

 

(1)留学期間(Jan.-Mar.)

 インドネシアにて学んで遊び、心から楽しんだ。小説にするならば、「これから起こる大混乱を、その時は知る由もなかった、、、」という枕詞が付くに違いない。留学生が自分しかいないクラスで授業を履修したり、近くの島を履修したり、気合を入れてインドネシア語を勉強したり、教育施設にフィールドワークにいくなど。その時々を楽しみすぎて、再帰的な振り返りがあんまりなかったのはちょっとよくなかったかもしれない。

 そして3月、インドネシアは元々衛生状況がいまいちだから感染しないのでは、、、?という現地人の間での自虐的希望も通用せず、泣く泣く帰国する羽目になった。

 

(2)夏セメスターと読書とインドネシア語とお試し就活(Apr.~Aug.)

 東京に帰る家がないため、止むを得ず実家での暮らしを開始。振り返るとこの選択は大正解だった。一日中実家にいるなど、まさに幼稚園入園前以来である。オンライン授業も始まった。大体予想はしていたが、基本的にこちらの方が都合がいい。ゼミ形式の授業も、画面共有ができるという点では必ずしも悪いことだけではない。本当に自己研鑽活動しかやることがなかったので、ひたすら真面目に取り組んだ。ついでに関連書籍なども大量に買いあさって本の虫と化した(これは現在まで継続)。インドネシア語も真面目に継続して取り組んだはいいものの、7月の検定試験は体調崩壊で受験リタイアしたのはいいネタ話だ。リベンジは今週末なのでしっかりやりたい。

 勉強系とは一線を画すが、サマーインターン参加という就活の前哨戦のようなものも少しは取り組んだ。3社ほどに参加し、どこにおいても就活や就職後のために必要な学びを得られたのは有意義だったと思う。一方で、就活の中での常識のいくつかに対してはいまだモヤモヤが取れないままだ。それが気持ちよく就活に全力で取り組めていない理由だな、と今になっても思う。現実は現実としてちゃんと取り組んだ方がいい、という意見は至極もっともだである。この点については別の場所でまともに書く。

 また、どのパートで書くべきか微妙なところだが、夏と秋を通していくつかのコンテストにも取り組んだ。全てをオンラインで行うのは新鮮だったが、やはりどこかにオフライン要素が欲しい、と思ってしまったのはいつかは刷新される価値観なのだろうか。ともかく、参加したうち一つの「日銀グランプリ」では第二位の賞として3万円をいただいた。どうせなら造幣局の使用権限が欲しいものである。

 

(3)国家総合職試験と旅行(Sep.~Nov.)

 国家公務員、いわゆる官僚を目指すかどうかは個人的にずっとつきまとう悩みだった。だった、は不適切だ。悩みである。この問題が比較的難しいのは、現状の情勢に鑑みるに、「自分の価値観やりたいことと適合している!!」という理由だけでは安易に進むことが危うい体と思う。とは言っても官僚としてやってみたいこと自体は存在するので、教養区分と呼ばれる採用試験に取り組んだ。詳細は別の場でまとめようと思うが、なんとか合格を掴んだ。残りは6月の官庁訪問(最終面接)である。真面目に自らと向き合う中で覚悟を決めて望みたいところだ。

 この期間は、一時的にGo To機運が高まった時期でもあったので、旅行にもたくさん参加してストレス解消だった。中でもどこでもドアきっぷというJRのチケットで、3日間新幹線乗り放題(¥11000)はもう圧巻である。いくらオンラインの経済合理性が高まっても、人間としてのオフライン交流の大切さを改めて思い出した。まあ、シンプルに楽しいという話である。

 

(4)学習の方針固めなど(Dec.)

 最後の1ヶ月は、それまでの軌跡を再帰的に振り返りつつ、方向性を修正し始める期間でもあった。ひとまず官僚の試験に区切りがついたというのも大きい。具体的には、基本情報技術者の学習・統計の理論と実践・インドネシア語を「スキル」として励む方向性とした。卒論もそろそろ行動し始めなければ教授に何か言われそうである。もっとも自粛圧力が強かった春先のように、ひたすら家で学習や調べ物を続けるのが習慣づいた。ちなみに上で触れた「日銀グランプリ」の決勝プレゼン大会、唯一のオフライン機会がこの月にあったのだが、日銀本店から(石川居住のため)出禁を食らうというハプニングも発生した。



 一思いに時系列で羅列してみたが、書いてみた感想は、「書いてみると意外と薄いな・・・」。いわゆる”コンテンツ”という観点からみると幅が広いとは言い難い。当然ではあるが。もっとも、自らの主観では非常に重みのあった年だったわけだが、その内実を総括という形式で次から記述したいと思う。

 

前半戦の振り返り

 

帰国日はまだ不明ですが、明日から新学期スタートということで折り返し感が強くなってきています。

現状どんな感じかという振り返りをつらつらと書こうかなと。

 


[1] 留学という名ならにはの勉強

 


A. 授業

ヒアリング・スピーキングにおける英語力の圧倒的不足(周りはこの2分野がネイティブクラス)
始めて触れるようなトピックの授業
であることにより、カリキュラム自体は不完全燃焼で終わった感があります。おそらく留学生ボーナスが加わった?ことで成績自体は良かったものの。学んだ内容に関してはは、示唆に富んで今の考え方にも残っているもの、あまり身になったとは今はいえないものの半分といったところでしょうか。Ethnic Conflictという授業は個人的に大学入学以来を含めてもbest3に入るんじゃないかと思えるほどの良授業でした。

後期は、前期を通じて知れた学部の特殊性や雰囲気も考慮に入れて授業を選んでいきます。

留学の成果といえばの「英語力」は正直劇的に上がった感触はないです。後期はもう少しあの手この手を仕込んで意識的に効率的な実践力向上を達成したいと思います。

 


B. インドネシア語

 


前期はひたすらインプット重視という事で、受験生のように語学学校や単語帳も利用し、普段の生活でもあの手この手その手で最速での向上を目ざしました。先週ごろにジャカルタで検定があり、おそらくC級(レベルの描写は難しいけど)を取れたと思います。今のところは順調なのかなという感じです。

インドネシア語で抵抗なく全ての方法での情報収集ができるようになることが目標です。後期は実践的にニュースを見たり興味分野の論文を読んだりいろいろヒアリングしにいったりと、目的であった情報収集活動や最低限の種々のアウトプット活動が「できる」と自信を持って言えるレベルまで持っていこうと思います。

 


[2] 課外での活動

 


(日本にいた時よりは)時間が非常にあったので、勉強関連以外でも、友達と遊んで話したり、フィールドワーク的な活動をしたり、旅行したり、はたまたじっくり本や記事を読み、、、などゆったりと時を流しておりました。長期休みの序盤はインドネシアの他の島を周遊するなどして、この国の国是「多様性の中の統一」を再び感じ取ってきました。

振り返ると、割と交友関係に関しては「狭く深く」になったように思います。「お前といたせいでいつもの大学での友達と遊ばなくなった」と言われたほどの本当に仲がいい友達など、暇になれば声をかけるような仲間は何人かできてそれは本当に嬉しいのですが、それの影響で自分から意識的に知り合いの絶対数を増やす努力はあまりしなかったように思います。特に中盤以降は。ちょっと悩んで考えたんですがこれの是非は判断しようがないという結論に行き着きました。幸か不幸か仲良くしていた人たちが後期は相当諸事情でいなくなってしまうので、半強制的にどんどん新しい交友関係を広げていきます。楽しみです。

最新の出来事ですと、ジャカルタの高校にお邪魔して主に日本社会についていろいろな発表をさせてもらったり先生といろいろお話させてもらったりしました。全てインドネシア語で行ったのでチャレンジングさという意味でも刺激的だったのに加え、「現代日本文化(アニメや漫画)だけでなくもっとその裏にある日本という国の明暗含めた構成要素を知れたらよいだろうな」という個人的思いを実行に写すことができ満足です。もちろん反省点ばかりですが。

 


ここは書き出すときりがないですね、、、まとめられなかったので止めます。

 


[3] 最近思う・考えていることなど

ぱっと出てくる振り返りをいくつか。

 


やはりいろんなインドネシアの側面を知ることができたのが大きいですね。うん。「日本人からすると馴染みの薄いイスラム教が圧倒的多数だけど、親切で日本の現代文化が好きな人が多い」ということまでは留学前の経験から分かっていたのですが、それに留まらない色んな人たち、そしてそれを取り巻く環境と交流して知って考える。そんなエスノグラフィーもどきの繰り返しが何よりも自分にとって楽しい時間です。特に学部やそこからの紹介では自分の想像を超えるような「ものすごさ」を肌で感じる人にたくさん出会えてよく萎えてよく刺激されたなあ。

それを受けての自戒ですが、何かを一枚岩ですぐに論じたがる欲求には常に抗いたいものですね。日本についても同じですが、無思考に国という切り口で何かを語ろうとするのは危険だなあと。例えば経済的状況の差によって相当に生活・行動様式やそこからの性格にも影響があったりと。社会学でやったハビトゥスってやつなのかな。

そんな当たり前のことですが、こちらにきて強く意識するようになりましたありがとうインドネシア

 


後期はもっと新しい人と場所に足を動したいものです。良くも悪くも、前期はめちゃめちゃ仲良い友達ができて一緒にいることが多かったので。そのせいで新しいところに踏み込もうとする努力が最近減っている感があるのは反省だなと。前期インプットしたことを受けてフィールドワーク的活動の数も増やしていきたいものです。

大学での授業も面白そうなものがとれそうなので、勝手がわかっている分もあり前期より楽しめそうです。

欲しいインプットを得る・現地に入り込むために、そして単純に楽しいため情熱を注いでいるインドネシア語は、前期で基盤は作りきれたかなと。論文以外ならほぼ苦労なく読めるようになり、アウトプット面でも相手が待ってくれさえすれば言いたいことはしっかり伝えられるようになってきました。あとは論文やニュースを読んで聞きまくったり、いろんな所で議論したりと、思いっきり本来の目的に使っていきます。

ジョグジャカルタのやみつきレストラン 「SS」

辛いものが多いことで有名なインドネシア料理。インドネシアに行くこと自体は楽しみで仕方なかったものの、食べ物の辛さだけは一つの心配点でしたし、実際に現地に来てからもなんども苦しまされました。うっかり唐辛子が強いものを食べて涙が出たことは数知れず。まあ少しは耐性がついたと思わなきゃやってられないところです。
そんな僕が、唯一にしてインドネシア料理断トツトップの好物となった辛いもの料理のお店を紹介させていただこうと思います。(完全に今までとは毛色が違う記事です)

オススメするお店は「Special Sambal」、通称「SS」。サンバルというのは、インドネシアでよく使われる辛い調味料、唐辛子のようなものです。
メニューは多いのですが、ある一例を挙げるとこんな感じ。白ご飯・Terong Goreng(なすの天ぷら(?))・Ca Kamkung(空芯菜)・Ayam Bakar(焼いた鶏肉)・飲み物・Sambal Tomato(1番辛くないサンバル)です。料理にサンバルをつけていただくスタイルです。ちなみにチェーン店なので割とたくさんあります。

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以下にオススメポイントを列挙していきます。

1 圧倒的な安さ(コスパ
インドネシアということを割り引いても安いです。上で列挙したものを全部頼んでも、値段は300円未満。ちなみになんと白ご飯は食べ放題。ここさえあれば節約も簡単です。

2 一つ一つがご飯に合う
安かろう悪かろうでは全くなく、どのおかずもご飯を進ませるものばかりです。個人的には空芯菜が一番の推しです。ご飯が無限に進みます。日本人では、なすの揚げ物が好きな人が多い印象があります。たしかに、日本ではなすが苦手だった自分でもここのなすの揚げ物は大好きです。なるほど。

3 絶妙にやめられないサンバル
店名に冠するだけあって、サンバルは大きな魅力です。まず、30種類近くのサンバルから自由に選べるのが良い。まあ大抵自分は1番甘いトマト味を選ぶのですが。なにはともあれ、お肉にもなすにも野菜にも、サンバルをつけることによって満足度が2倍にも3倍にも上がります。なんなんでしょうね。辛いのは間違いないのに、また食べたくなってしまうあの魔力。だれか研究してくれ。

まあ挙げるとこれだけなのですが、とにかくこれがやめられないんですよねえ。この1週間で6回も行ってしまいました。中毒性怖い。てか太る。
間違いなく日本でこの味を再現したら売れまくると思うんですよねえ。

なんか文章の行き場を失ってしまったのですが、とにかく、

「ここを食べるだけにでもぜひジョグジャカルタに来てください。。。🙏!」

という記事でした。ちゃんちゃん。
次回はまともな学びの内容を書こうと思っています。